とりあえず禁止にしようという日本のあだ名禁止問題

なんでこんなことが議論されているのか謎である。

 

あだ名はいじめになるといって、あだ名を禁止にするなら、そもそも携帯を禁止にした方がいい。

携帯がいじめの温床になっているのはずっと前から知られているが、そこの制限や禁止と言う話は意外に進まない。

 

私的には、なんでも禁止にできるものは禁止にしようというシステムには物言いがある。

 

問題が起きた時に、一番楽なのはその関連している者を排除することだ。

でもそれじゃまた新たな問題が出て困るということの繰り返しだ。

 

これは物を買うということにも似ている。

私は物を基本買わない、自分でできることは自分でやるし、作れそうなものは買わずに家にあるものを工作して作る。何かが欲しいと言ってすぐに買うのと、欲しい物を代用品で作るというのとでは使っている脳のエネルギーが段違いに違う。

 

欲しいものがある⇒買う

問題がある⇒原因を排除する

 

これは確かに一つの解決策かも知れないが、その中でどう折り合いを使えるかを考えることに意味があるのではないだろうか。

 

学生時代~社会人生活振り返ると、あだ名でいじめられる奴は確かにいた。

あだ名で人気者になる奴もいた。

 

この世界をまるごと潰すということはまた新しく大きな問題を生みかねない。

 

芸能人の芸名も、落語家の名前も本名じゃないものをあだ名とみるかどう見るか

大人はあだ名を使っていいけど子供はダメと言うことになるのか。

 

同じ名前や名字の人がクラスにいる時にどう分類するのか

何かを無くすと言うことはそれ以上の代償を生み出す可能性を十分に秘めている。

あだ名がいじめになるといっても、すべてのあだ名の中でもいじめになっているあだ名はかなり少ないだろう。いじめになっているあだ名だけを禁止にしてペナルティをうまく取り入れるのも手だと思う。

 

私が学校の先生なら、生徒一人一人が嫌な事をみんなで共有して、お互い弱みがあるというのを知ることも一つの大きな勉強だと教えるだろう。もちろん伝えられる範囲でだが、そうやって自分と他人は違うということを学んでいけるのではないか。

 

 

問題が発生した時に、大人である我々が、もっと折り合いをつける方法を導き出せるように考える習慣をつけないと、子供に指摘なんてできるのだろうか。

 

子供を叱る前にまず自分自身に問いかけてみてほしい。自分は人を叱るに値する人間なのかと