「昔あほだったな自分」、と思い返すと少し元気になる。

落ち込んだ時は、昔自分がしたあほだった経験などを思い返すと、今までの成長ぶりに感心することがある。
たまには昔の自分と対話してみると、なにか人生のヒントが見つかることがある。

 

 

私は大学時代の一時期寮に住んでいた。

門限が22時までで、それまでには寮に戻ってこないと始末書を書かされる。

 

22時には入口に施錠がされ、寮管が開けてくれないと入ってくることもできない。

 

寮の1,2階の窓には柵がしてあり、出れないようになっていた。

 

寮生も何百人かいたが、寮を脱獄しようと考える者は少なかった。

{ちなみに平成に日本の刑務所から脱獄したものは36人ほどらしい。}

 

その中でも脱獄を試みて行動する者がいる。

ほんとどの者はそういうことに興味を示さないのか、逆に人間と言う不思議さに疑問を持った。

 

3階から飛び降りたり、布団のシーツを結んでロープ代わりにして外に出たりする者もいた。

私は、他に面白い出方はないか?と考え、昼に学校のプールから監視台を友達と運んできて、寮の裏に置いて、窓からそこをつたって上り下りできるようにした。

 

これは面白いだろ、とみんなに自慢していたが、片づけるのを忘れて寮母さんに見つかって始末書を書かされた。

友達が酒飲んだのをばれたり、飲み屋でつぶれて門限までに帰ってこれなくて始末書を書いているのを見て、何か方法はないかと考えた結果

 

「寮母さんが持つ始末書を隠そう」

という発想になった。

 

もちろん原本を取らないと意味がないのに、寮母さんの部屋の大量の始末書を友達の部屋に隠した。

これもばれて問題になり、めちゃくちゃ怒られて始末書を書かされたのを覚えている。

 

頭が真っ金金色だった、自分はただのバカにしか見られていなかったかもしれない。

 

 山奥に住んでいたので、たまにクマの目撃情報があると、《危険なので家から出ないでください》というようなサイレンが町に鳴る。

みんな怯えて家に籠るのだが、友達と数人で「どうにかしてクマを倒せないか?」という話になった。

 

アホみたいに毎日朝の4時くらいまで語っていた。

どうやってクマを倒すか、動物は火に弱いとか、硬い武器が必要になるとか言って、スプレー缶にライタ―を設置した火炎放射器を作った。

 

次のサイレンが鳴った時に、友人と5人でテニスラケットや火炎放射器、鉄パイプを持って夜の山に入って行った。念のために、戦闘になったらに備えてラグビー部の喧嘩が強そうな助っ人も連れて行った。

 

結局クマとは出会えなかったが、今考えると出逢わなくてよかったのかもしれない。。。

 

 

そんなアホなことをいろいろやって気づいたことがある。

なんでも、思ったことをやってみれば話のネタになる上に、それだけ学んだことが多くなっていく。ということだ。

 

それは別にバカだと言われることでも、大きく人の道に外れなければいい。

 

何もしない人は、アホなのかも、アホじゃないかもわからないただの人になってしまう。

というより何もしないということは大人になってみればアホと変わりはないのだが、行動と言うものがいかに重要かを知った。

 

もちろん生きていくうえでの兼ね合いも大事だが、できる範囲でやってみたことは必ず自分の糧になる。

それをたまに思い返す時間くらい、たまには持ってみてもいいかな。と感じた。