62話 「俺も昔はそうだった。」と共に失敗を見続けなければならない

よく人と話していると、「俺も昔はそうだった。」ということが増えたように感じる。

 

無意識を意識していると問題の本質が見えるようになる。

 

簡単な例だと、”友達に嫌な事をされたから仕返しをしたい”というような問題について、無意識に感情的に動けばやられたらやり返すという半沢直樹ばりな考えになりそうだ。

 

しかし、一歩立ち止まって考えてみると、友達と争っても失うものの方が大きい、時間にしても労力にしても、それで友達がまた仕返しをしてくるとなると本当にキリがない。

 

 

無意識を意識するとは立ち止まって考えることに近いように感じる。

一呼吸置こうなどというのは、この意識に集中するということを含んでいるようにも思える。

 

友達と話してて、「こういうことをやりたい。」という話を聞いて私は基本否定しない。

 

「これはかなりの確率でうまくいかないだろうな。」と思っても肯定している。

ただ失敗する可能性が高いことは、ある程度意識のある人には伝える。

 

でも、それを実行して案の定、失敗するということが多い。それを自分は静かに見守る。

この見守ることには大きな意味がある。

 

先回りして失敗しないように人を導いてしまうと、その人の勘も研ぎ澄まされないし、考える力も奪ってしまう。それに気づかない親が多い。

 

その一例がニートと言う存在だ。

親だけが必ずしも悪いわけではないが、子供に考える力をつけさせずに言いなりになるように育てると、その子は考える力を欠落したまま育ち自分自身で判断が出来なくなる。

 

指導者は失敗を見守るのも仕事だろう。失敗するのが分かっててそれを見守ることはつらいことだろう。私も友人の一つの失敗が取り返しのつかないものになってしまったことも何度も見てきた。

 

小さな失敗だろうと思っても、それが何かの拍子にもう戻れないほどの人生の失敗になってしまうこともある。

 

だがそれでも失敗を見続けなければならない。

失敗をしたことがない人は魅力がない。

 

本当に格好いい人とは、多くの自慢を語るよりも多くの失敗を語れる人だから。