今朝、2ちゃんねる創設者ひろゆき氏のyoutubeの一人語りを聞いていて感じた。
ひろゆき氏はスパチャで質問に答え続けるというものだが、
「ひろゆきさんのお母さんはどんな人ですか?」と言う質問に対し、
ひろゆき「確か、足が2つあって、目が2つあった感じの人だと思います。」
という風に答えていた。
これを聞いて、自分は考えにとらわれているということを悟った。
多くの人は目や足が2つあるなんて、そんなことあたりまえだろ。
ふざけてるのか、と思うだろう。
ただ、あたりまえという考え自体がすでに囚われの罠にはまってはいないだろうか。
人間は誰しも足が2つあるわけじゃない。目が2つあるわけではない。
しかし、それが2つあることがあたりまえという前提で、生きてはいないだろうか。こんなことはメタ認知して意識して見渡してみるとたくさんある。
(メタ認知:自己の認知のあり方に対して、それをさらに認知することである。)
昨日は、友人とドンキに行く時に、たまたま以前飲んだことがある20歳くらいの女の子も近くにいたので一緒にドンキまで送った。
その女の子は、「明日海に行くから今日シュノーケルと足ひれを友達の分も買わないといけないんです。できれば長く使えるいいやつを買いたい。」
私は「ドンキじゃなくて釣り具やとかの方が長く使うにはいい品があるよ。」とだけ伝えた。
その子はだいぶ迷った末にあまり質の良くなさそうなシュノーケルセットと足ひれを買った。
私は、これも囚われの一つなのではないか?と感じた。
選択肢はドンキで買う以外にもあるはずだ。
次の日に、釣具屋で買ってから海に行く。シュノーケルをレンタルする、私か私の友人に借りて後日、質の良い物を買いにいくなど。
その子は今ここで手に入れなければいけない。というとらわれの中にいたのかもしれない。
噛み砕いて考えてみる。
見方を更に変えると、選択肢をその子が持っていなかったということになる。
選択肢が少ないと、とらわれやすくなることが多い。
選択肢ととらわれは、果てしなく近い因果関係が潜んでいるように思った。
洗脳や、考えにとらわれないためには、他の世界を知る。そのために知識をつけていくことは生きやすくするうえで重要なことだと感じた一日だった。