☆95話 育ての親は生みの親じゃないといけないのか?

最近、児童虐待で子供が死んでしまうというニュースをよく目にするたびに思う。

 

子供を産む親と育てる親が違うことでなんの不便があるのだろうか。

それさえ取り除けば、もっと生きやすい社会につながっていくはずだ。

 

子供を欲しいと思う人のところにはなかなかできないのに、求めていない人のところに子供は生まれてくることが多いようにも思える。

 

世の中そんなものだろうとか、神様の試練だとか言う話を聞くと、神様の裏を読んで、求めていない人に生まれた子供を求めている人に養子で引き渡すのもありなのではないだろうかと思ってしまう。

 

子供を虐待しているのは、私の主観ではあるが、未熟だということだろう。

 

子供が言うことを聞かないからしつけのためとか

イライラした気持ちを子供にぶつけてしまうとか

ただ楽しんで暴力を振るうとか

 

一人の人間として未熟であるようにしか見えない。暴力で子供が死んでしまえば、刑務所と言う、割の合わないところで時間を過ごすことになる。そこまで考える力が欠落している。

 

人それぞれ得意不得意があるように、子育てにも得意、不得意がある。

子育ては全員親ならできて当たり前というまかり通った考え方に違和感を感じてしまう。

 

今の日本に必要なのは、本質として、一人一人が違う考え・価値観を持っていて、自分の考えが正当であるとは限らないと一人一人が知ることだ。

 

親が本当の親じゃなくて何がいけないのだろうか。

育ての親と生みの親が違うことに問題があるのだろうか。

 

最悪の事態を想定した時に、生みの親に虐待されて殺されるくらいなら、違う育ての親に大切に育てられた方がいいと私は思ってしまう。

 

この世界にいると、何が正義なのかが見えなくなってしまう人が多い。

命を無意味に落とすことは間違いなく正義ではない。

 

同性愛のカップルの婚姻制度が日本では成立されていないというのをアベマニュースで昨日見たが、同じように感じる。

一人一人価値観は違うし好きになる人も違うだろう。

 

それが、異性との結婚しか認めないとなると、同性愛者の権利と自由の侵害になるのではないだろうか。

 

同性愛者が育てる子供は一般家庭とはまた違って独自性に特化していずれ大きな成果を出す可能性が高いように私は思える。

 

どんな親でも、生き続けて大人になって独り立ちしていければそれでいい。

そのための道を阻むことだけはしてはいけない。

 

生きやすい社会にするためには、他人のことを尊重することが大事である。それが自分ではなかなか理解しがたいことであったとしても、実害がなければそれでいい。

 

そうすれば相手から自分も尊重してもらえることになるだろう。