☆96話 先生に怒られないかな?と思う自己中

薬局で

薬局で働いていると、「先生(医者)に言うと怒られそうで・・・」と言って患者さんから様々な注文を受けることがよくある。

 

薬を飲んでいるけど、実は効いていない

他にも出してほしい薬がある

薬の飲み方を自分なりにアレンジして飲んでいるがこのままでいいのか?

 

などなど、医者には言えなくて、と言って色々な要求をされると薬局側の手間が増えてしまうが、信頼されているようで悪い気はしない。

 

つい先日も、

「痛み止めが効かないので市販の薬も一緒に飲んでいるが、先生に言ったら怒られないだろうか?」

というおじいさんがいた。

 

私はこの発言から、日本の教育上発生している見えない問題が、人々を無意識に苦しめている。

今まさにその氷山の一角が露呈されていると思い、衝撃に感じてしまった。

 

薬を飲んでいようが飲んでいまいが、医者にはなんの痛みも害も発生しない。

それなのに、なぜ怒られるかもしれないと感じてしまうのか、それは日本の教育にあるのではないだろうか。

 

 

子供の頃に、親に叱られないように親の言うことを聞かないといけない。

先生の言うことを聞かなければいけない。

 

ということを染みつけられたせいで、周りの目を気にして自分を押し殺して生きている人が大勢いる。

自分のしたいこと、興味があることもやりたいと言い出せずに、やりたくないことを嫌々続けている人が大勢いる。

 

医者に「薬が効かないから、市販で薬を勝手に飲んでいる。」と言うことを正直に話せずに、効かない薬を飲み続けて現に困っている人が目の前に存在していた。

 

その人達は、「先生やお父さん、お母さんに良く見られたい、悪く見られたくない。」という生き方を中心に生きてきた自己中心的な人だ。

自分がみんなに注目され、見られてると思い込んで人の目を気にして生きている。

 

同じようなことを子供の時、疑問に感じたことがある。

学校によくいる宿題を忘れる奴を見た時だ。

 

「宿題を忘れました、ごめんなさい」と先生に必死に謝る奴。

 

宿題を忘れて困るのはだれか?自分だけだ。

先生は、どうせ数年で会わなくなる子供一人が宿題を忘れてこようが何の痛手もない。

 

宿題を忘れたやつが、学力でみんなより少し遅れる可能性があるというだけで、何を謝っているのかさっぱり分からない。

 

これも困っているのは自分だけなのに、他人に謝るという自己中だ。

自分が中心だと思い込んでいるから、他人に迷惑をかけたかもしれない、とと意味もなく謝っているという状況になっている。

 

 日本という大きな組織が求めて、意図的に作り出した人間像は、言うことをしっかり聞き言われた通りに行動するというロボット人間だ。

「自分はいい子である。」という他人の目だけを気にして生きている人たちは、一人の人間と言えるのだろうか。

 

私は子供の頃から筋金入りの問題児だった。

ボタンがあれば必ずというほど押した。消火器を見た時に取り敢えず使ってみた。自分の家に、ドアから入らず2階までよじ登って入ったりもした。危ないと言われても、やってみたかったからだ。

自分がやりたい、楽しいと思ったことはほぼなんでもやった。

 

学校では問題児と言われ続けたが、親は「みんなと同じことをしても幸せになれないから好きなことをやれ」としか言わなかった。

親父も同じような子供だったからだ。親父は社会的にも成功していると言っても過言ではない。

別に天才的に何かできたわけではない、ただ好奇心を持ち続けて生きていた。

 

私は「先生がやめなさい」と言うことは無視し続けた。

先生が学校教育でいい子に育てようとすることは、基本的には好奇心を潰すということだ。

 

やりたいことをやろうとする人は悪い子、と言うレッテルを貼られるが、その子たちは好奇心を無くさなければ世界を引っ張るとんでもないような発想をする。ホリエモンにしても前澤社長にしてもスティージョブズにしても、やりたいことをやり続けた人ばかりだ。

 

やりたいことをやってはいけないと好奇心を潰され諦めることを教えられた人たちは、言われた通りに動く1つの歯車として、社会に埋め込まれるだけになる。

 

いい子に育ってきたはずなのに決断力も好奇心もない人になってしまい、流され続ける。

 

自分の人生の主人公は自分であるはずなのに、誰の人生を歩んでいるのだろうか。

 

我々は自分自身の生きる道について、真っ向から向き合わなければならない。それは自分が人間であり続ける限り行い続けなければならない。