☆97話 「教える」ことの目的は教えることではない

教えることの目的は、教えることではない。

 と言っても、何言ってるんだ?と思われてしまうだろうが、本質を理解していただきたい。

 





そもそも本質とは物事の核となる部分だ。

核となる部分を理解しないと、表面上で同じことを繰り返すことになる。

 

分かりやすい例で言うと、

蜂が多くて困っているなら、飛んでる一匹一匹捕まえるよりも、蜂の巣を見つけ出して取り除く方が解決になる。

ここでの本質は、「蜂の巣の存在が蜂が増える主原因」ということだ。

そして表面に見える問題が、蜂が多くなっている。

 

仕事でも同じだが、表面を見て、蜂が多いから蜂を少しずつ捕まえよう。というのは非効率である。

それなら問題の原因の巣を取り除いて、それから余った蜂を捕まえていこう。という方がより速く問題の解決につながる。

 

これが仕事ではなかなか見えないことがある。

 

仕事で、石垣島を出るので引継ぎで業務内容を後輩に伝えている友人がいるが、それが長引いてしまっていて困っているという。

 

それは目的が教えることになってしまっているから終わりなく続いている。

本質を考えると、その教える真の目的は、

「後輩を独り立ちさせるために、仕事を覚えさせて、一人でも自分で考えて動けるようにしてあげる」

ということのはずだ。

 

そのためには時間制限を設け、いついつまでに全部伝え、その都度、自分がいなくてもできるように訓練をさせる必要がある。

 

いきなり島を離れてしまったときに、残された後輩は全部の任された仕事を一気に1人でやらなくなってしまい、あたふたしてとんでもない失敗をやらかす可能性もある。

 

 しかし、教える目的が「教える」という状況になっている人は少なくない。

  ・教える方は仕事の時間を自分の知っている作業を伝え仕事ができ、気分がいい。

  ・教えられる方は、仕事の時間を教えられる作業に使え、自分で何もしなければ心理負担が少なく時間が潰せて気分がいい。

 

これでは、何も進まない。

算数にしても同じだ。

 

1+1=2 2+3=5 など一個一個教えてもキリがない。しかし、教えることが目的ならこの作業は無限大に拡大させることが出来る。

 

独り立ちさせるために公式を覚えさせてあげ、その公式を理解させてあげるのが指導者の任務であると私は思う。

 

知識にしても、知識をいくら詰め込んだとしても、それを何かしらの形で出せないと何の意味もない。

それを知らずか知ってか、知識を入れることすらしていない人が多い世の中で、一週間に1冊でも本を読み続けるということは、

 

その場で足踏みしている人々の中を、前に向かって歩いて進んでいくようなものなのだ。