私は、いろんな人と会うが、「この人あんまり考えていないな。」と思うことが多々ある。
自分自身が大賢者ですごく考えているかというと、なんとも言えない部分はあるが、考えないと損をするということを常に伝えている。
よく、親子の会話で親が
「お前はなんも考えていない!」
子供は「考えているよ!」
というようなやりとりがあるが、この内容を深掘りしてみると、
「考えている」の意味は、見えないものを見ようとしているか。ということだと私は思っている。
ほとんどの人が、「自分は考えている」と思っているものは、見えているものの中でしか頭を使っていないため、目に見えるもの以外を想定する力が乏しいことが分かる。
私の友人で大学を中退した仲間がいるが、大学行くの面倒くさいからと、大学をやめてしまった者がいる。
大学をやめた後の世界を想定していなかったのだろう。
資格もなければ、就職も思うようなところには就けない。
それも目の前に、新たな現実を突きつけられて初めて、今後どうすればいいのだろう。と考える。
この人たちは、今は見えないものを見る力が足りない。それこそ本当の考える力なのではないか。と私は思っている。
見えているものを見てるのは、考えるというより見ているだけだ。
ほとんどの人が、その違いを意識していない。
というより、意識しないような教育を受けてきたからだ。
日本の学校教育は常に受け身型の授業スタイルで、基本的に自分の意見を出したり、未来を考えたりするようなことは少ない。今の細かい教育については詳しくないが、つい数年前まではそうだった。
受け身型なので、自主的に何かを行う人は少ない。
「意見がある人は手を挙げて下さい。」
と言われて手を挙げる人はまずいない。
発言するのが嫌だからと言って、考える力は育たない。これが全員意見を言ってくださいと言われたら、そこからフル回転で何を言うべきか考えるだろう。
自分が意見を言う機会を待つのではなく、自分で作っていかなければならない。
教育制度は全部が全部悪いとは言わないが、明治時代から続く制度を改善せず続けているのは少し疑問を感じてしまう。
時代は変化しているのに。
我々ができることは、目に見えないものを常に見ようとすることだ。
コロナで次は何が求められるのか、今行っていることをずっと続けた未来はどうなるのか、、など。
考えた人だけが道を開ける。
考える力を強めた猿が人間になって、世界を開拓できたようにだ。頭の中ももっと広げられるはずだ。
考えないと頭の中の1Kの部屋の中で1人、居の中の蛙になってしまうかもしれない。