77話 考えてるからケチになる。

私はケチと言われることが多い。

もはや、節約の度合いを完全に通り越しているのは自分でも自覚している。

 

子供の頃は、ほとんど何でも欲しい物を祖父母に買ってもらった。おもちゃにしてもゲームにしても、有り余るくらい買ってもらった。

今考えると無駄遣いのように感じるものもほとんどだが、その積み重ねで今の自分がある。

 

大人になってお金の浪費が止まらない人は、子供の時に欲しい物を買ってもらえなかった反動で、大人になってほしい物を何でも買ってしまうというデータを以前見た時、子供の時で浪費癖が収まってよかったとつくづく思う。

 

子供の時の浪費と言っても自分がお金を出していた訳ではない。

 

しかし、子供の時か大人の時の浪費で比べるとやはり大人になってからの方が買うものの値段が大きい。

 

私は物心ついた時から節約をするようになって物を買わなくなった。欲しいものがあったらまず作れるか考え、現実的に難しいものは買うか、友達との物々交換でもらうようにしている。

 

物を買うことは早い決断だが、一番頭を使わない。

私は頭を使いたくて敢えて作れるか、どうやってできているかを考えてしまう。

お金を節約すると、考えることが多くなる。

 

 

節約を極めて、今では燃えないごみの日は正直、外を回るのが楽しい。

なんの使えるものが落ちているのかを見回りながら歩く。

 

以前、落ちているティファールや皿を拾って家で洗って使っていたこともある。

 

ここで、

「落ちてる鍋とか危なくて使えないでしょ」

「毒が塗ってあったらどうするの?」

 

と言われることがあるが、そんなことはない。

私は住宅地のゴミ捨て場から拾ってきているので、誰かがいらなくなったからか、壊れたからと言う理由でおそらく鍋を捨てている。

 

拾って使う人がいる前提で毒を塗って鍋を捨てている人がいたら、相当すごい奴だと笑ってしまう。

 

人が使った鍋は使えないという人が多いが、ここはじっくり考えてもらえると理解してもらえるかもしれない。

 

もし、家族が、親戚が使ってた高い鍋もらったからと言って家で使っていても何も思わないはずだ。

友達が鍋使わなくなったから、と言ってくれたら何も思わず使うだろう。

 

他人が使っていることに変わりはないのに、誰が使っているかわからないというだけで、嫌悪感を抱いてしまう人が多い。

 

洗えば使えることに変わりはない。

 

軽い気持ちやパッと見の判断で、「なんとなく嫌だ。」

という感覚で人々は多くの損をしている。

何も新しいことに挑戦できずに、株は怖いからとか、転職は怖い。と言って今の現実にしがみつくことが自分にとって最善の道なのかを今一度考えてほしい。