125話 日本人はなぜ議論が下手であり、それを避けようとするのか?

友人とロジハラについて話している最中に、オーストラリア時代の友人から、

『どのように他人の思考を議論思考へ変えていくか?』という英作文が送られてきた。

 

ロジハラとは、ロジカルハラスメントと言って、理詰めで人を追い込むことらしい

 

そもそも、言われてばかりいる人も原因の一つだと思うが、そもそも議論する余地がある。

 

理詰めで言われて嫌なら、

「言い方が問題だから、相手が受け入れやすい指摘の仕方もあるのではないか?」

など言い返せば、議論に発展しかねない。

 

ただ言われ続けていればそれは腹が立つこともあるだろう。

 

 ここではこれ以上は、とりあげないが、私が今回考えている問題としては、なぜ日本人は議論がへたくそなのか?ということだ。

 

アメリカではディベートの授業があったり、英語圏の人なんかは、日本語よりもずっと数が少ない言語の中で気持ちを伝えなければならない。

曖昧な表現も少なく、言いたいこともストレートなので日本語よりもずっと論理的に聞こえる。

 

彼らは気持ちを伝えるということになれている、というアドバンテージもあるが、日本人の抱える問題として私がもっとも重視しているのは、課題の分離が出来ないということだ。

 

 人間みんな違うのだから意見がぶつかることもある。

 

そこで議論になった時に、議論になっている考え方と、人格を分離できていない。

 

これが一番問題だろう。

友達と遊ぶ日に、仮に友達が遅刻したとする。そこで、「遅刻しても来ればいいじゃないか」というような一つの考えと、その人の人格本体とは、問題を切り離して考えなければならない。

 

日本人は、自分の考えを否定された時、人格まで否定された。と思ってしまう。

 

考え方とは、人格の中にある一つのパーツの様なもので、人格そのものではない。

 

恋人が、掃除が出来ないが、とても優しい人なら、掃除が出来ないからこの人は、終わっている。とはならないだろう。これが課題の分離だ。

 

議論ではなかなかこれができない。

一つのパーツを指摘されたことを、すべて否定されたように感じてしまう。

 

問題解決の最善策は課題の分離を意識することだ。

嫌われる勇気と言う本にも、痛いほど課題の分離についてつづられている。

 

これを意識できないと我々は議論ができず、意見も言えない狭い世界に閉じ込められたもので人生を終わってしまうかもしれない。