死にたいのに死ぬ自由すら与えられない日本
死にたいというおばあさんの話
年齢が90の患者さんで、「歳とってもなにもいいことないから早く死にたいんだけどね~」
と結構真面目な顔していうおばあさんがいる。
私は、「この人たちの医療費が1割で済んでいるのは、その分の税金を払って働いている人たちがたくさんいるからなのに。。。」 と思い悲しくなる。
そもそも日本は、寿命が異様に伸びていて、これは果たしていいことなのか?
と疑問に思うことがよくある。
長生きは本当にいいことなのか?
長生きしたくて、生き甲斐があって生きていればまだ問題ないと思うが、
嫌々生きていたり、ただ毎日時間が過ぎるのを待って生きている人を見ていると、人間ってこういう生き物なのだろうか?と思ってしまう。
そもそも日本には、治療中に死にたくなったら死ぬことが出来る、という安楽死の制度がない。
重い病気で、入院して治療して、死にたいのに死ぬ自由さえ与えられていない。
安楽死
安楽死のことを、スイスで安楽死したオーストラリアの環境学・植物学者デイビッド・グドールは
「ふさわしい時に死を選ぶ自由」 と定義している。
体が動かなくて、話すこともできず、激痛だけが走る中で自分だったら生き続けることほどつらいことはないと思うが、ここで死なせてもらえない日本の制度は本当に正しいのだろうか?
多くの医療面から見た利益が見込めるという理由が関係しているのかもしれない。
それが理由なら安楽死の制度が取り入れられることはまだまだ先になりそうだ。。。
ちなみに、スイスのディグダニスという団体は、医師・看護師が自殺を助け70万円ほどで安楽死ができるらしい。
生きていたくないけど、死ぬ勇気もない。
だからしょうがなく生きているという人は、私が会ってきた中でも意外にも多い気がする。
死ぬ理由も生きる理由もないようなもの
「生きていればいいことがあるよ!」
なんてクソほど無責任な事を言う人は最近少なくなったが、今の30代以下の人達にしてみれば、この先に普通に労働者と生きていたら絶望しかないと言っても過言ではない。
以前、山口尚さんの「幸福と人生の意味の哲学」と言う本を読んだことがあった。
死んでしまいそうなくらい辛いのになぜ生きていかなければならないのか?というようなテーマの本だが
、結局明確な答えは見つからなかった。
我々は答えのない世界で生き続けている。
死にたい人は自殺して、生きていきたい人は生き続ける。それはある種答えを見つけた人たちの目的を果たしたものとみれば、自殺してしまうということは悲しいものだが、本人の自由という見方から合理的な決断の一つなのかもしれない。
「死にたい」と言う人がいて、「死ぬな」と言う人は、その人の自由よりも、知り合いが死ぬと悲しい、死んでしまったらもう会えない、という自分の欲求が優っているのではないだろうか?
生きていくことが本当に正しいのかという答えを誰も知らない中で、自由よりも大事な選択はあるのだろうか?